桂三枝「六代 桂文枝」襲名発表会見で、涙ながらに決意を語る
このたび、公益社団法人上方落語協会会長で、五代目桂文枝の総領弟子である桂三枝が、来年2012年7月16日、69歳の誕生日に上方落語の大名跡である「桂文枝」を襲名することとなり、都内のホテルで会見が行われました。
「桂文枝」は上方落語界きっての大名跡で、三枝の師匠である五代目文枝は、松鶴、米朝、春團治とともに“上方落語四天王”と呼ばれた名人。そこで会見には、桂三枝をはじめ、吉本興業の会長および社長、さらには弟弟子である桂きん枝、桂文珍も出席。ひじょうに重々しく、また華やかな会見と相成りました。
まずは桂三枝が所属いたします、吉本興業よりご挨拶です。
吉野伊佐男(吉本興業株式会社 代表取締役会長)
「来年、吉本興業は創業百周年を迎えます。その節目に大名跡が復活することは、わたくしどもとしては大きな喜びとともに責任を感じております。TVで人気者になりました桂三枝でございますが、噺家として『現代の人々が心の底から笑えるような、時代に合った落語をやっていくしかない』とそんな思いを抱いて、自分で紡いで昇華して、創作落語において多くの傑作を残してくれました。今回の文枝襲名は一門の総意とはいえ、45年もの間慣れ親しみ大きくしてきた『三枝』の名から、師匠の名を継ぎ、大きくしていくという難行に挑むという厳しい決断でもあると思います。わたくしどもも全力で後援していく所存です」
大﨑洋(吉本興業株式会社 代表取締役社長)
「わたくしども吉本興業は、桂三枝とともに上方落語を守り、育てる決意をあらたにいたしました。みなさまの、より一層のご指導ご鞭撻を頂戴したいと思います」
そしていよいよ、六代文枝を襲名する桂三枝からのご挨拶です。
桂三枝
「このたび、六代文枝を襲名させていただくことにいたしました。襲名につきましては、文枝という名前があまりにも大きいということと、三枝という名前への愛着もあり、ひじょうに悩みました。継ごうか継ぐまいか、行ったり来たり、何度もいたしました。そのことできん枝さん、文珍さんにもたいへんに迷惑もかけました。そんな風にして、襲名を意識したきっかけというのは、2年半ほどにでました『三枝、文枝襲名か?』という報道が出たことです。実は、それまではまったく具体的に考えることはしてなかったのですが、そのときからわたくしの中で文枝襲名について考え出しました。しかし慎重に、ひとりで、そのことと向き合った感じがいたします。ですから、上方の先輩方にも、仲間や友人、弟子、さらには本来いろいろ相談すべき家内にも、その話はせずに、ひとりで考えてまいりました。とくに家内には芸のこと以外すべて、母のことや子供のこと、着物や慶事な寝る間も惜しんでやってくれましたので、相談なくここへ至ってしまったことをひじょうに申し訳なく思っております。というように、ほとんどひとりで考えてきましたが、実はひとりだけ、相談をした師匠がいます。それは…(言葉を震わせ)談志師匠です。師匠はわたくしがこの世界に入ったときから、ひじょうに可愛がってくれて、いろんなときにいろんなことを相談してきました。そんな中、昨年師匠が入院されましたときに病室で、わたくしは師匠に襲名について相談しました。すると師匠は『やめとけ。せっかく三枝という名前を大きくしたんだから、その名前でずっと噺家を続けるべきだ』と言っていただいて、わたくしも『そうですね。そういたします』と答えたのですが、そこからずっといろいろ考えまして。桂派の源流でもあるこの名前を、五代目まで直系の弟子が時間をかけて繋いで参りましたので、ここでもしも将来、文枝という名前がほかのご一門さんに継がれるようになりましたら、亡くなった五代目文枝はもちろん、代々の文枝に申し訳ないなと。そんなことをいろいろ考えまして襲名を決心いたしました。そして所属の吉本興業にお話をさせていただきましたら『来年は百周年だから、その記念のイベントとして大いに盛り上げよう。協力を惜しまない』と大崎社長に言っていただきました。わたしはこれが一番心強かったです。そして襲名の件がマスコミに流れる一日前に、まず談志師匠にと思い、師匠に連絡をとりますと、師匠がちょっと今声が出ないということでしたので、共通の知り合いであります毒蝮三太夫さんに、わたくしが文枝を襲名するということとそのいきさつを伝えてもらいました。すると師匠からわたくしにFAXが届きましたので、ご本人のご了承を得まして、紹介させていただきます。『人生成り行き 三枝より文枝の方がよくなったのか ぢゃあ仕方がない 勝手にしろ 三枝のバカヤロウ 立川談志』。師匠を裏切るようなことをして、本当に…申し訳ない。師匠、早く良くなってください。お願いいたします。その後、東西の師匠方に連絡をいたしました。その中で、落語協会の前の会長である(鈴々舎)馬風師匠が『そうか、よかったな! 師匠の名前を継げることは落語家として一番幸せなことなんだ。それも、揉めることなく襲名できるということは、感謝しないといけないよ』と言われまして、私も本当にその通りだと思いました。今は堂々と胸を張って、なんの迷いもなく、一点の曇りもなく、六代文枝を、来年の7月16日に襲名したいと思っております。五代文枝の珠玉の古典は、文珍くんをはじめ、優秀な一門のお弟子さんに任せまして、わたくしはあたらしい“平成の文枝”を作りたいと思っております。来年からの襲名興行で全国を回り、大いに盛り上げて、長くお世話になった吉本興業に恩返しをしたい。また、上方落語にも恩返しをしたいと思っております。最後に、襲名を後押ししてくださった五代目文枝師匠の奥様、ご家族、一門のみなさまに心より感謝申し上げます。そしてこれまで45年間、三枝を応援してくださったみなさん、バカヤローな三枝を許してください。そしてこれからは、六代文枝をこれまで以上にごひいき賜りますことを伏してお願い申し上げます」
続いては、同じ五代目文枝の一門であり、三枝の弟弟子にあたる桂きん枝と桂文珍からのご挨拶。
桂きん枝
「今回、わが一門のトップである三枝さんが、うちの師匠の名前を襲名するということになり、これほど嬉しいことはありません。よく、ほかのご一門で師匠の名前を取り合ったりとかいうことをよく聞きますが、わが一門はうちの師匠が亡くなりまして七周忌を迎えますが、なにも揉めることなく決まりました。一門、20名ですけども手を合わせて今日のよき日を迎えられた。わたくしも去年の夏に、あんなバカなことをしてしまいまして…そのときにも兄弟子には、選挙カーに乗っていただいたり、辻々でお話をしていただいたりと、精一杯の応援をしていただきました。今度はわたくしが精一杯のお返しをするときであると、心を決めたわけでございます。これからはわたくしに出来ること、もうなんでも言うてもらえたら、させていただきます。一門はもちろん、上方落語協会の総力を挙げまして、今回の襲名を未曾有の襲名にしたいと思っております」
桂文珍
「今のきん枝さんのお話は、なんか選挙演説のような力が入っていて、緩急ができてないなあ、まだまだ教えないといけないなあと思いながら聞いてたんですけども(笑)。ま、いずれにしましても、三枝という自分の師匠にいただきはった名前を、大きい大きいものにしはって、それと別れるちゅうのは、たいへんなことですよ。それを捨てて文枝っていう名前を襲名して、より大きいしていってっもらわないいかんわけです。まあだいたい襲名すると大きい名前を小さくする人が多いんですけど…誰とは言いませんけどね(笑)。この方の場合はひじょうにスゴイ人でしてね。もちろんマスコミでの活躍はみなさん御存じでしょうし、落語家としても創作を220本もお書きになってるんですね。それはご自分では演じられるのはもちろん、後輩もよく演じるんですが、これがまたようウケるようにできてるんですな。ですから、平成の古典として残りそうな噺をたくさん生みだしているわけです。なおかつ上方落語協会の会長、そして繁盛亭を作り、今度は落語会館というのを建て、しまいには文枝襲名と…わたしやることがなくなるんちゃうかなあと。どこかで棲み分けを考えなあかんなあと思ってましたら、三枝という名前が空きましたんで、私が襲名させてもらおうかなあと(笑)。ちなみにそれを会社に相談しましたら『ギャラの振り込みも、仕事もややこしなるからやめてくれ』と。でもまあ、、一門の者が心をひとつにいたしまして、全体で上方落語、日本の落語を盛り上げてまいりたいと思います。同じ文枝一門としましては、みなが分母になりまして、あたらしい文枝(分子)を支えたいと思います」
以下は、会場に集まった記者と繰り広げました質疑応答です。
――文枝襲名を最終的に決断されたきっかけなどはありますか?
三枝「いつまでも文枝という名前をほっとけないということと、自分の年齢が今日が68歳になりまして。襲名するのが69歳と考えると、これが決断するギリギリかなと。それと来年、吉本が百周年ということを考えると今しかないなと思い、決断しました」
――文珍師匠がさきほど「三枝を継ぐ」とおっしゃってましたが、実際に三枝という名前が空きます。そんなことも含めて、三枝という名前をどう位置付けますか?
三枝「今まで“三枝・作”ということでたくさん作品を作って参り、作品を東西の落語家さんにひゃっていただいてますが、それを“文枝・作”に変えるというわけにはいかないと思うんです。なので、そのときに三枝という落語家が作ったものとして“三枝・作”というのは残したいと思います。なので、これからも文枝が三枝が作った落語を演じる、ということですね。というのもあり、誰かに三枝を継がせるということは考えていません。それと文枝を襲名することで、番組ではちょっと椅子から転げにくいなと思いますので(笑)、その辺は周囲と相談して、うまい具合に三枝も残せたらと思います。ですから文珍さんが三枝を継ぐということは…200%ないです」
――入門してからの師匠との思い出などがありましたら。
三枝「それこそたくさんありますけどね。そもそも入門のときにわたしは母に『ある会社に就職が決まった。人事課長と会ってほしい』ということで、NGK前の喫茶店へと連れていったんですよね。母には落語家になるなんて一切行ってない状態で。そしたら高座が押しまして、師匠が着物姿で喫茶店に入ってきたんですよ。それで母も『ひょっとして…?』と思ったらしいです。入門してからは、わたしだけが内弟子として師匠のうちに入ったんですよね。わたしで懲りたのか、以降は通い弟子になるんでけども(笑)。そんな中、ある日わたしがカバン持ちとしてついて歩いてたら、友達に行き会ってしゃっべたことがありました。そのとき師匠はなんにもおっしゃらなかったんですが、帰って食事して寝ようかというときに『三枝、今日話してたんは誰や?』とおっしゃった。『いくら友達でもあんな言葉づかいはあかんで。お前はプロになったんや。みんなお客さんや。丁寧に接しんとあかんでえ』言われましたね。そのときにプロの厳しさを感じましたし、人に対する優しさを教えていたただいた感じがいたします。ま、弟子それぞれに師匠の思い出はあると思います。たとえばきん枝さんは師匠にいっぱい殴られましたしね(笑)。ただそれを話してると、さらに2時間くらい必要なのでこの辺で失礼させていただきます」
――最近入門された三度さんの名前が変わることは?
三枝「三度は三枝の“最後の弟子”ということですから、それを『文度』というわけにも参りません。三度としてやっていくことになります」
――奥様に伝えられたのはいつで、そんおときどんな反応を返されましたか?
三枝「これが…たいへんでございました(笑)。一度話したときには『わたしは三枝と結婚しんだ』と。文枝というのは彼女にしたらとても重い名前で、わたしには合わないように思ったんでしょう。ということで一回反対されて以降は、黙ってきん枝くんと話を進めてきました。きん枝くんも『奥さんには言わん方がよろしいで。せやないとエラいことになりまっせ』と言われましたからね。人生の経験者である、きん枝さんの言うことを聞いといた方がええんちゃうかなと。なので、最終的に襲名のスケジュールなども決めて『やるぞ!』となったときに家内にはあらためて申しました。ですから、今もまだ納得してもらってないところもありますが…よろしくお願いします(笑)」
――大﨑社長にはいつごろ、どのようなカタチで相談を?
三枝「去年のはじめ…ごろでございましたかね?」
大﨑「…まったく覚えてない」
三枝「ひじょうに忙しい方ですので(笑)…東京でも何度も会って相談させていただいたのですが、実は私もまったく覚えていない(笑)。でもただ『徹底的にやる』と。吉本興業に三枝という名を大きくしてもらったから反対されるかと思いましたが。『そのための予算はいくらでも』とおっしゃっていただいたのですが、実はプロジェクトチームのリーダーが、ちょっと頼りない桂きん枝さんで(笑)。きん枝さんに『お金の件はいくらでも』と…」
きん枝「別予算を組んであると聞いています」
三枝「国家予算に近いと言うことで(笑)、ありがとうございます」
大﨑「何度も何度もお食事をご一緒にさせていただいたんですけど…その食事がすべて食事が美味しかったなあと。それとまあ、きん枝さんの次の目標というか仕事があって良かった。以上です」
――襲名披露公演の規模など決まっていますか?
大﨑「これから会議に身を入れてやろうと思っていますが、三枝本人も何年もかけて全国各地すみずみまで、外国もと言っていますので、いろいろ考えたいと思います」
きん枝「私の方からもある程度の道筋をご説明しましょう。まずは来年の今日なんばグランド花月でやりまして、それを皮切りに最低5大都市。千人から二千人規模のホールを借りてやろうと。東京と大阪では披露パーティもしますしね」
――きん枝、文珍両師匠から見た「三枝」像は?
きん枝「40年以上のおつきあいをさせていただいていて、年齢がちょっと離れていますが、僕が入ったときにはテレビやラジオで桂三枝として売れていた方なんですよ。兄弟子も文珍さんも落語研究会出身ということで、まったくの素人は私だけだったんでいつも師匠を怒らし嘆かし、いろんな事をしたのは私(笑)。そんな中で、兄弟子をすごいなと思ったのは五代目が亡くなられた後、本当に先頭をきって一門をまとめチームリーダー的な存在になったんです。若いときはもっとトゲトゲしていましたが、上方落語の会長になられてから本当に丸くなられたというか。近寄ったら何やら怒られそうな気がして、それが今はなんでも相談しやすいですからね」
三枝「それは…君が成長したのよ(笑)」
きん枝「あ、そうですか(笑)」
文珍「きん枝さんはおもしろい人ですな(笑)。で、わたくしから見た三枝の兄さんですが、それこそ私は学生時代のアマチュアのころから存じ上げていまして、一番最初に聞かせて頂いたときに『上手な人がいてはるな』と思ったら、あっという間に先代に入門しまして。あれから45年も経ちまして、いまは年齢的なこともあると思いますがひじょうに精神が充実してはる気配を感じますね。ただ、精神的に充実をするころというのは肉体的に衰えていくころともいいますので、お聞きすると『もうあかんねや』と(笑)。『何があきまへんねん?』と聞きますと『何もかもや』と(笑)。とはいえ、この方は上方の落語の灯火を、LEDに変える人だと思っているんです。兄貴のやっていない道をやらないと私らも食べていけないのでどうしようかと思いましたが、私なんかはちょっと食べ残しがあったところをコソコソというところです。なお全国ツアーはスケジュールが厳しいと思いますので、そこは私が飛行機を操縦して、落語はオトせても飛行機は落とせませんから。ということで、大いに盛り上げていきます」
きん枝「それでふと思いましたが、上方と東京で小さん師匠と米朝師匠が人間国宝になられましたけど、私、この方が文枝を継ぐことが人間国宝の第一歩だと思います」
――六代文枝は先代のどういうところを継承していこうと?
三枝「五代目のネタそのものはできませんが、やはり師匠と弟子は似ていると思います。女性の演じ方とかおおらかな感じとか、びっくりするときの間とかね。知らず知らずに師匠の通りやっている気がしますし、これからつくる創作落語も師匠に似た部分を多く持ちながらやっていくんじゃないかと。それに生き方そのものについても、師匠のいろんな所をそれぞれの弟子が受け継いでいるんだと思います」
最後は『龍馬伝』の題字を手掛けた紫舟さんによる「六代 桂文枝」の書を挟んでの記念撮影。三枝はにこやかな中にも、決意のほどが伺える表情を見せておりました。
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