桂文枝が平成27年春の叙勲を受章 「ネタを磨き上げ一層努力」
政府は29日、平成27年度の春の叙勲受章者を発表し、
冒頭、「今日はお忙しいなか、お越しいただきありがとうございます」と挨拶した後、しばし声を詰まらせた文枝。受章の報を受けた直後に桂米朝さんの訃報に触れたことから、「私にとって特別な賞となった。非常にうれしいが、喜んではいられない」。終戦のわずか3カ月後、五代目笑福亭松鶴さんと米朝さんの師匠である四代目桂米團治さんらが四天王寺本坊で落語会を開いて今年でちょうど70年。「その年に米朝師匠が静かにこの世を去られて、そしてその年にこういう立派な勲章をいただいたということは、何か運命のようなものを感じる。『しっかりやれよ』『あとを頼むぞ』という感じに受け止めております」とコメントしました。
また、来年芸能生活50年を迎える自身の歩みを振り返り、「今日までやらせていただけたのは、やはり亡くなりました五代目文枝が門戸を開いてくれたから。ちょうどその時、(桂)枝雀兄さんとか(桂)春蝶兄さん、それから吉本では(笑福亭)仁鶴先輩、そしてその上には四天王がいらっしゃって...すごくいい時期に入門できたな、いい環境の中で落語を勉強できたなと思います」。ある先輩から「君がこうして名前を知られたのも、師匠に門戸を開いていただいたおかげだし、その恩返しをしなあかんぞ」と言われたエピソードも明かしつつ、「協会の会長に推薦していただいて、投票で選ばれた時から、協会のためにといろいろとやってきましたが、それも支えてくれた協会の皆さんのおかげ。また、繁昌亭ができたのも大阪天満宮の皆さん、商店街の皆さん、本当にいろんな皆さんのおかげです」と改めて感謝しました。
「これまでで辛かったこと、嬉しかったことは?」との質問には、「О型で楽天家なんですが、なかなか繁昌亭が思うように出来上がっていかない時は、精神的にも追い込まれました」「(五代目文枝)師匠に見ていただけなかったのは残念でしたが、繁昌亭が出来上がって、天神橋筋六丁目から一丁目まで、三代目(桂)春団治師匠を人力車にお乗せして商店街を歩いたのは最大の喜びだったと思います」とそれぞれ回答。今後については、「会長に(再び)選ばれて、『つなぐ』をテーマに協会員一丸となってやって来ました。若い人を育てるとともに、自分自身も創作落語300本を目指してやっていきたい」。さらに「改めて師匠方の落語を聴くにつけ、自分はまだまだだなあと思う。今までやったネタをたくさんの人にやっていただくための指導と、自分でもネタを磨き上げるなど一層努力して、上を目指していきたい」と決意を新たにしていました。
今月末には、250本目となる創作落語を発表予定。「ここまで精力的に作品を作り続けてこられた原動力は?」と問われると、「米朝師匠もいろいろ落語を作られていたが、それより(古典を)残すことの方が大事やという状況の中で、一生懸命、年配の落語家さんにお聞きになって(上方落語を)復活させられた。それじゃあ私は、その次の時代に残る落語を作っていかないといけないな、と。そういう思いが途中あたりから芽生えてきました」。作品を作り、覚え、練り上げるということは「大変なこと」としながらも、「お客さまの前で口演して、ドカンと大きな笑いを聞いた時は、『もっと面白いのを作ったろう』という気持ちにならせていただける」ことも大きな力になったそうです。
「もし、いま枝雀さんがおられたら」ときかれた際には、「報告に行ったら、ものすごく褒めてもらえると思います。『ようやったな』と、わが事のように」と、しみじみ。また、「まだまだ足下にも及びませんが、稽古の大切さというのを一番に教えてもらいましたし、古典落語があんなに面白くできるのも、才能もさることながら稽古のたまもの。まだまだ自分には稽古が足りない」と自身に喝を入れるとともに、「『いつか古典もやりや』と言われたことは、自分の頭の中にある。枝雀兄さんの言葉に応えられるように、噺家としてまだまだ磨いていきたいなと思います」とも。「大阪では、皆さんいろんな方の古典落語を聞いておられるが、地方へ行った時、『こういう噺もあるんや』というのを皆さんに聴いていただくのも私のこれからの仕事」と、創作落語の発表だけでなくまた別の場も設けていくことにも意欲を燃やしたほか、最後は「上手な翻訳の方がいらっしゃったら、落語が世界中で読んでもらえるような作品になる。そういう意味では、創作落語は世界中で通じると自負しているので、それが英訳されれば嬉しい」と、新たな夢も語っていました。
【桂文枝】