染弥改メ 三代目林家菊丸襲名披露公演
9月27日、なんばグランド花月で『染弥改メ 三代目林家菊丸襲名披露公演』が行われました。
1年前の同日、三代目菊丸襲名記者発表を開いた染弥ですが、あれから1年、とうとうこの日がやってきました。115年ぶりに復活する上方落語の大名跡。NGKにはそのめでたき瞬間を見届けようと多くのお客様が駆けつけました。
トップバッターを務めたのは林家竹丸。おめでたい名前が出てくる「寿限無」を披露しました。
お次は桂米團治さん。大晦日の噺ではありますが、古い年から新しい年へと変わる噺なのでと「掛け取り」を。大晦日に集金にやってくる商人をどうやって交わすか、そのアイデアが面白いネタですが、芝居好きの醤油屋へは芝居仕立てでうやむやにしようと画策する主人公。ダジャレを用いて芝居口調で乗せるシーンでは、上方の落語家の名前がずらり。染弥、菊丸の名も取り上げ、襲名を寿ぎました。
続いては月亭八方、冒頭から高校時代の後輩というどかべんこと香川伸行さんの思い出話を。そして話題は阪神タイガースといかにも八方らしいマクラから「始末の極意」を口演しました。
中トリは六代桂文枝です。2012年7月に三枝から六代文枝を襲名、「最近ようやく“文枝さん”と呼ばれるようになりました」と自身の経験談も。中にはサイン色紙に「三枝」も書いてくれという方もいて…とぼやきモード、披露した落語も新作「ぼやき酒屋」でお父さんの悲哀を面白おかしく演じました。
中入りが明けて口上を。林家花丸の司会進行のもと、進みました。
口上は桂文枝から始まりました。
「本当におめでとうございます。菊は天皇家の紋章ですし、日本の国の花です。ですから、すばらしい名前です。我々にとりましては、枚方の菊人形です。展覧会やコンクールで優勝する、勝菊になるには大変な年月と、それなりの手入れが必要で大変手間がかかるものだそうです。「勝菊や ああ幾年月の この香り」というものがありますが、本人の努力もありますが、落語は非常に手間のかかる、時間のかかる芸でございます。みなさんのご贔屓が一番でございます。菊丸さんを日本一の勝菊にしていただきたいと思います。おめでとうございます」。
続いては月亭八方。八方は冗談交じりの口上で沸かせました。
「私、八方は染弥改メ三代目林家菊丸を存じておりません。うっすらとしか。しかしながらこのめでたい席にこうして並ばせていただいて、光栄の極みです。お祝いの言葉を用意するまでもなく、本当に我ながら、ああ情けない。彼と私は、わずかな違いです。ほぼ同期ございます。同じ吉本興業にいながら、なかなか会う機会がございません。というのも、私は圧倒的に吉本の仕事をするのでございますが、彼は個人的な仕事ばっかり。なかなか会う機会がないのですが、でも“兄さん、三重県で仕事があるのです。吉本に内緒で”と何度か三重に行ったことがあります。そのときにいただいたお礼は未だに忘れることができません。驚くばかりの大金でした。そのお金で家を建て、八光を育てました。本当に染弥兄様、お世話になりました。これからは皆様方のお力をいただきまして、林家染弥改メ三代目林家菊丸をご贔屓いただきますよ、お願い申し上げます」。
桂米團治さんは、菊丸という名前にまつわるエピソードも添えられました。
「この菊丸という名前は実は、染丸よりも古い名前でございまして、菊丸から染丸が出たんです。私は今、米團治ですが、小米朝から米團治になったときに、米團治という名前は米朝より古い名前だったんです。米朝よりも古い名前、米團治が米朝を作ったんです。そこだけ大きな声で言いたいと思います(笑)。そういう意味では、師匠を“追い抜いた”菊丸さんですので、今後はともに手を取り頑張りたい次第ですが、お客様のご支援がなければできません。ひとかたならぬご支援を新しい菊丸さんによろしくたまわりますよう、ひとえにお願い申し上げる次第です」。
笑福亭仁鶴は口上に加えて、手締めも行いました。
「染弥くんが師匠とともに吉本の楽屋に顔を見せまして、“菊丸を襲名したいと思いまして”ということで、ああ、これはおじいさんも、つまり染丸師匠の師匠ですが、私が大変お世話になって、吉本に入れてもらったのですが、喜んではるやろうなと最初に思いました。染丸、菊丸、花丸がいて丸ばっかりです。ええ芸名ですな。その後、襲名発表会見で“僕でいいんですか”と言ったと聞きました。こんな遠慮深い言葉を最近あんまり聞きません。“僕が僕が”はあるけど、“僕でいいんですか”と、この言葉がちょっとズシンと来ましたね。で、師匠はどう言うたんですか?(染丸「がんばりや」と)止めるか?言うたんと違う?(笑) そういうことで、立派な名前を継ぎますが、これはお客様方のご後援がなければなりませんので、隅から隅まで、今までどおりに応援をしてやってください。私からもお願いをいたします」。
最後は師匠の林家染丸です。染丸は時折、涙をぬぐうような仕草も見せ、どれだけこの日を待ち望んでいたか、その気持ちが伝わってきます。
「皆様のおかげで新しい菊丸が誕生いたしました。どうぞ、今後ともご指導、ご鞭撻のほどよろしくお願い申し上げます」。
最後は仁鶴の手締めで“大阪締め”を。会場の全員で行い、菊丸の船出を祝いました。
時に爆笑を呼んだ口上の後は、中田カウス・ボタンがさらに華を添えます。コンビを組んで47年、あうんの呼吸で繰り広げられる漫才に、なんばグランド花月はまたまた大きな笑いの渦に巻き込まれました。
そしていよいよ三代目林家菊丸の登場です。襲名直前には「待ちに待った襲名披露の当日、一刻も早くお客様の前に登場したい心持ちです。今宵、トリの一席は、これまでの感謝の気持ちを“笑い”に変えてお届けしたいと思います。ご期待くださいませ」と語った菊丸。襲名披露公演のために選んだネタは「子は鎹(かすがい)」です。家を建てる際、材木と材木を繋ぐ役割を担う鎹。タイトル通り、子どもは夫婦の鎹であるということを面白おかしく、また人情味たっぷりに説いたネタです。菊丸も熱演、情感たっぷりと聴かせてくれました。
そして高座を終え、襲名披露公演はお開きに。菊丸は下がってゆく緞帳を途中で止め、「ご挨拶させてください」と、訥々と話し始めました。
「僕はあまり自分のこととか、さらけ出すことが苦手な方で、あんまり自分のことを言わない方なんですが、今日はけじめでもありますので、少しだけお話をさせていただきたいと思います。
20年前、師匠のもとに弟子入りを許されました。三重県から大阪に出てきて、二十歳になろうという年でした。落語にのめり込むきっかけとなったのが中学生の頃でございまして、中学2年生の時に両親が離婚しまして、姉と母親と約5年間、離れて暮らしました。
このころ一人で過ごすことが多かったので、ラジオを聞いていると落語が流れてきて、その世界観がとても楽しそうで、落語を聞いていると一人じゃないように思えて。繰り返し、繰り返し聞いて、それこそ現実から逃れることばかりしていました。
繰り返し聞いていると覚えまして、覚えると何かやってみたくなって、友達なんかに落語の真似事をやってみせると喜んでくれました。家に帰っても一人ですから、少しでも友達に長くいてほしいから、何か面白いことをしないと友達を引き留められない…。そのようなことをしていたのが中学から高校2年くらいまででした。
そしてこの世界に入らせていただき、染丸一門、吉本興業という芸能の世界に入らせていただいたら、同じような境遇の人間がいっぱいいて。今日の公演パンフレットでも(矢野・兵動)兵動大樹さんと対談させてもらっていますけど、兵動さんも全く同じような境遇で、そんな人がいっぱいいるんです。だから何も寂しいことがなくて、ここに居場所があるなって思いました。
ああいうタイミングで落語というものに出会って、のめり込んで、今があるんですけど、(あの頃は)思い出したくないことなんですが、今改めて思い返すと、あの頃の経験が今、こうして幸せな形で返ってきているんだとつくづく感謝しています。
染二兄さんから2年前に菊丸襲名の話をいただいて、去年の9月27日に襲名記者発表をさせていただきました。この1年間、襲名という神輿の上に乗せていただいて、準備をしていたのですが、一門、先輩、後輩、いろんな人たちが集まってくれて、神輿の担ぎ手が日に日に増えてきました。そして襲名の日が近づいてきて、吉本興業のたくさんのスタッフが一丸となってバックアップしてくれて、担ぎ手がどんどん増えていくのをこの1年、肌で感じました。本当に僕は幸せだと思っております。
そして本日、こういう晴れの舞台に立たせていただくことができ、菊丸襲名という神輿にたくさんのお客様がこの上ない、きれいな飾り付けをしてくださて、本日から約1年かけての襲名披露公演のスタートを切ることができました。
今日お越しくださった皆様に菊丸を応援してよかったと思っていただけるように、より一層精進してまいりますので、どうか今後とも三代目林家染弥……」
と、あろうことか、一番大事なところで「染弥」と前の名前を言ってしまった菊丸。場内は大爆笑、拍手も起こりました。
少し照れたような表情を浮かべながら「もうツメの甘いところが…」とつぶやく菊丸ですが、最後はびしっと、「この後も、三代目林家菊丸をご贔屓賜りますよう、よろしくお願いいたします!」と挨拶し、記念すべき襲名披露公演を終えました。
115年ぶりに復活した上方落語の大名跡、三代目林家菊丸。これからも応援のほどよろしくお願いいたします!
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