水谷千重子キーポンシャイニング歌謡祭2018 大盛況のうちに終了いたしました!!
水谷千重子がすごい。
いや、この人の場合、いつもすごいのだが、今年は歌手生活五十周年という節目の年でもあり、ノリに乗っている。
9月2日の名古屋国際会議場センチュリーホールを振り出しにスタートした「キーポンシャイニング歌謡祭2018」ツアーは、東京、大阪、仙台など六都市を巡り、10月16日の松山公演で千秋楽を迎えた。キャパシティが千人を超える大ホールのチケットはいずれも争奪戦で、当日の物販には長い行列ができる。
ぼくは東京と松山の公演に参戦しただけだが、「MyRevolution」からアンコールの「ら・ら・ら」まで、たっぷり3時間。その開放的な歌声と、少しもトーンダウンするところがない力強さにノックアウトされた。
東京でも松山でも、特筆すべきはコンサートの客だねの良さである。と言っても、決して「選ばれた人々」の集会ではない。むしろ、その逆なのだ。
見るからに善良な愛媛の人々が、千重子のタブローの前で写真を撮り、「千重子水」(コンサート会場のみで販売される特別な飲料水で、効能に曰く「飲めばこぶしの花が咲く」。ただし効果には個人差がある)を買い求める。
彼女のファンは広範囲に渡っている。下は20歳前後の若者から、40代、50代の中心的なファン層を挟んで、上は七十代、八十代まで。彼ら彼女らは言ってみれば普通の人たちだ。老夫婦が手を差しのべあってホールへの階段を登ったり、なれない操作で携帯の記念写真を撮ったりする姿がそこここで見受けられる。
しかし、ひとたびステージの幕が開くと、彼ら彼女らは高感度の観客に変容する。的確な笑い声とノリの良い手拍子は、ホール内の空気をあっという間にあたたかなものに変えてしまう。アンコールでは、かなりの年齢の人も立ち上がり、メロディに合わせて手を振っていた。
演劇でも、落語でも音楽でも、観客の起こす拍手、ざわめき、笑い声、そして無言のうちに交わされるステージ上とのラリーはライヴの本質的な魅力であり、それは演者と客、あるいは観客同士が精神をスパークさせることによって、かたちづくられる。
そして、いま、アーティストと観客の最も理想的な交歓を実現しているのが、水谷千重子のコンサートである。ぼくが千重子のライヴに足を運ぶ理由は、彼女の歌声だけにあるのではなく、あの幸福な空間に体を浸したい、という気持ちも大きい。そして、観客のこうした潜在的能力を引き出すのが、水谷千重子の魔法であろう。
千重子が「ライフワークにしたい」と語るキーポンシャイニング歌謡祭は一昨年に始まった。それまでにも、数え切れないほどのコンサートを開催してきたのだが、この「キーポン」では、彼女自身がチョイスしたアーティストをゲストに招き、一緒に唄うーー千重子ボキャブラリーで言うところの「ジョインする」ことが目玉になっている。
2016 年にNHK ホールで開かれた第一回のキーポンには、堀内孝雄、大友康平、根本要、松村雄基、などの人気者に加え、川中美幸が「千重子先輩のコンサートなら」と、過密なスケジュールを縫って参加。演歌界の先輩・後輩の絆の強さを感じさせるとともに、独特のグルーヴ感を持った二人のデュエット(「恋する大阪」)は聴衆を熱狂の渦に巻き込んだ。
ぼくは水谷千重子のステージを、ここ七、八年は追っかけているが、正直に言えば、このNHK ホールの歌謡祭が、すごろくの「あがり」ではないかと考えていた。公演の完成度からしても、規模からしても、もうこれ以上の段階はないのではないか、と思ったのだ。
しかし、それはキャリア五十年の大歌手の底力を甘く見るものであった。昨年、今年と続いたキーポンシャイニング歌謡祭をみて、ぼくの読みは見事に裏切られる。もちろん、良い方に、である。
数年前までの水谷千重子には、大物歌手とは言っても、J ポップを演歌調のこぶしで唄う風変わりな人、というお笑い芸人のようなイメージがあったと思う。これは、歌手としてはうますぎるトークの腕前や、自らデザインしたユニークな着物(ヨークシャテリアの柄)やマスコット(ニャントラ)の印象が見る人を惑わせていた面があるだろう。
しかし、今年のキーポンを見る限り、色物的な印象はほとんど消え去り、歌い手としてのエモーショナルな魅力、空間を包み込む歌そのものの力が増している。一言で言えば、芸が大きくなったのだ。オープニングで舞台奥の階段から登場し、ノンストップで歌い上げた「MyRevolution」と「WOMAN」は、ホールいっぱいに広がるスケールで、あっという間に観客の血流を上げる。その若々しさは、眩しいほどである。ーーよく学び成長する人は幾つになっても若い、という西洋のことわざがあったと記憶するが、そうした実例を実際に目にすることは稀であろう。
今回のキーポンには昨年にも増して、各ジャンルのアーティストが参加をした。森昌子、中村雅俊、根本要(スターダスト☆レビュー)、稲垣潤一、中山美穂、椎名恵、杉山清貴、岸谷香、香西かおり、大黒摩季 PUFFY、Kiroro、Crystal Kay、ナオト・インティライミ、一青窈、山崎育三郎と言った面々(会場によって出る人が違う)に、東京公演では、サプライズゲストとして藤あや子までが登場。演歌、ポップス、アイドル歌謡、ロックまでがごちゃまぜになった顔ぶれだが、不思議にバラバラの感じがしないのは、全体の世界が、水谷千重子によってしっかりと統合(ジョイン!)されているからである。
たとえば、中山美穂と唄った「WAKUWAKU させてよ」ひとつ取っても、それはかつてのヒット曲のなぞりではなく、千重子のビブラートと、中山美穂の唄声が混じり合うことで、ちゃんと今の歌になっている。両者の個性の引っ張り合いが、ほかにない世界を出現させているのだ。
千重子はソロのコーナーで、中森明菜メドレーを聴かせた(「飾りじゃないのよ涙は」がいい)。明菜、中山美穂、岸谷香と並べて見るとはっきりするように、全体に通底するテーマは「八十年代」である。
それも、ベストテンとトップテンと夜ヒットの80 年代、大映ドラマがフィルム撮影だった頃の八十年、深夜テレビで紹介されるミュージックビデオがオシャレだった頃の八十年代......水谷千重子自身は「80 年代は低迷期だった」とだけ言い、多くを語らない(その時期に芸能人水泳大会のポロリ要員だったという都市伝説があるが信じたくない)が、キーポンで再現される80 年代のイメージは、どれも当時のテレビの中の事物のように浮遊感があり、目には見えているのに、手に取ることはできない。その焦燥感が官能的に機能する。だから、今回ソロで聴かせた「SWEET MEMORIES」は最高に切なくて、キラキラしていた。(そして、千重子の衣装に刺繍された白銀の東京タワーも、比喩ではなくキラキラしていた)。
八十年代といえば、八公太郎が合いの手を入れて聴かせた「里波祭音頭(りばーさいおんど)」も面白かった。井上陽水の「リバーサイドホテル」の音頭化。これは大瀧詠一に聴かせたかった。二葉菖仁門下の仲間、八公太郎と倉たけしはところどころのコーナーに出演し、いつもの調子で彼らなりのエールを送った。千重子もこの二人を「しょうがないから出してやる」などと軽い扱いをするのがお約束になっているが、彼らのパートは観客をクールダウンさせる絶妙な効果がある。寄席に紙切りや曲芸がはさまるように、ほっと休憩できるのだ。
それにしても、レベルの高い観客である。井上陽水の「お元気ですか?」というセリフ(八十年代末の乗用車のCM)にもすぐに反応するし、オープニングで再現される東尋坊時代の少女の千重子にも、敏感な反応がある。もっとも、「水谷千重子50 周年」の歌謡祭に参加しようというだけで、「わかっている」人たちであることは間違いない。
三時間を超える日もあった「キーポンシャイニング歌謡祭」は、水谷千重子によって編まれたひとつのタペストリーである。そこに集めれらた人や歌は、それぞれに固有の顔を持っているが、全てを包括する水谷千重子は、それらのモチーフを組み合わせて、オリジナルな美しい文様を出現させる。
ぼくの見立てでは、しばしば「空疎な時代」であったと回顧される八十年代が、彼女の芸によって、いま現在よりもずっと豊かなかたちでよみがえっている。ぼくはそのことに感動した。
しかし、どこの世界に、豆富開きで締めくくられる歌謡祭があるだろう。水谷千重子に、ぼくたちには部分的にしか知ることができない謎めいた半世紀があったように、キーポンシャイニング歌謡祭そのものが、有りえたかもしれないもう一つの「歌謡史」にほかならない。
開幕前の「イッツ・ア・スモールワールド」から始まる、この夢の世界から現世に帰ってくるためには、厳粛な「豆富開き」の儀式が必要なのである。松山は北陸育ちの千重子にとって第二の故郷であるという。
彼女はトークで、この夏の豪雨災害に心を痛めていることを明かし、売上の一部と各会場に設置された募金箱に集まったお金を「日本赤十字社 平成30 年7 月豪雨災害義援金」および「愛媛県豪雨災害義援金」に寄付することを発表した。
中村時広 愛媛県知事
そして千重子は、可能であるならば、またコンサートでこの地に戻ってきたいと述べた。
ぼくも観客として、再びこの地を訪れたいと思っている。
和田尚久(放送作家)