ルミネとNGKでの25周年ライブが迫る! COWCOWが語る試行錯誤の25年間
高校の同級生、NSC同期を経て、1993年に結成したCOWCOWの2人。
今年で結成25周年を迎えるにあたり、『COWCOW 25th LIVE ~あのひとはFinally ぼくらはAnniversary~』と題した単独ライブが、11月17日(土)に東京・ルミネtheよしもと、12月9日(日)に大阪・なんばグランド花月でそれぞれ開催されます。
今回は、決して平坦ではなかったその足跡を振り返りつつ、25周年ライブへの意気込みを伺いました。
《COWCOW》
左:多田健二(ただけんじ)、右:善し(よし)
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――25周年の記念ライブということですが、この25年を振り返り、転機は?
善し 細かく言うといろいろあったんですけど、最初に大きいのは、2001年の上京になりますね。大阪で、舞台とかテレビに出させていただいたんですが、大阪とか地方の芸人ってみんなそうやと思うんですけど、東京へ行くのは大きな転機やったと思います。
多田 そうですね。
――2001年に東京進出するというのは、何かタイミングがあったんですか?
多田 2001年にルミネtheよしもとが出来て、当時のルミネtheよしもとの支配人の方から「東京に来るなら今やぞ」って言われたのもありました。それと、大阪では新人賞を3ついただいたんですが、2001年に『M-1グランプリ』が始まったんです。こんなデカい漫才の大会が出来たんやから、上京して結果を出すんだと思い描いていたんですね。でも2001年の『M-1』では準決勝どまりで、決勝へは進めず、2002年も準決勝どまり。2003年が芸歴的にラストイヤーだったんですけど、そこでもいけなくて、自分たちが得意と思っていた漫才で結果を出せなかったのは、すごいショックでしたね。
善し 結局、東京に来たのは、テレビに出たりだとか東京で活躍するっていう意味だと思うんです。でも、ネタ番組が少ない時代でもあったので、年に1回の『M-1』があって、あとは深夜にちょっとあるくらいで...。
多田 『M-1』で活躍した人をテレビや劇場で使い出すので、どんどん僕らの仕事がなくなっていき。
善し 悪循環ですよね。
多田 ルミネの楽屋で、一ヶ月のスケジュールを見た相方(善し)が、「こりゃあかん!」って言ったのを覚えてますね。
善し 僕も覚えてますね(笑)。
多田 僕ら漫才に自信を持っていたので、それ以外のお笑いのオーディションは適当じゃないですけど、全力でやってなかった感じなんですよ。だけど、東京来たからには、いろんなオーディションを全力でやらなと思って、そこからものまねとかコント、ショートネタとかいろんなジャンルのお笑いに取り組みましたね。その頃は(芸歴制限のないピン芸のコンテスト)『R-1ぐらんぷり』しか出るコンテストがなかったので、お互いが『R-1』の予選を受けて、ピンネタを作ったり。劇場では漫才をやるんですけど、漫才以外のことにも力を入れよう...力を入れざるえないといいますか(笑)。
善し 『秒殺』っていうギャグのイベントも2004年くらいから?
多田 そう。当時、いろんな芸人とユニットコントをやっていたんですけど、その時のマネージャーから「そんな仲良しライブをやっていてもしょうがないじゃないですか」「多田さんがギャグをやって、どんどん後輩を負かせていく、そんなストロングスタイルのイベントをやったらどうですか」って言われて。テレビとかで「何かやって」と言われた時、ギャグは非常に重宝するので、東京に来たての頃は、よりギャグを考えるようになり、ギャグだけのイベントをやるようになって、それが最終的には日比谷野外音楽堂で開催するまでになりましたね。
――2008年開催の『大秒殺』ですね。
多田 そうです。『M-1』に出られなくなって、ちょっと沈んでいた時、ライブでいい感じになった瞬間でしたね。
――上京後の模索期間があったからこそ、今のCOWCOWさんのいろんなネタが生まれたとも言えますよね。
多田 そうですね。自然とそうなっていったというか。
善し やるしかなかったですね(笑)。『ジャングルTV』(『ジャングルTV~タモリの法則~』)とか仕事はあったんですけどね。
多田 「ネタいっぱいあっていいね」って褒めていただけることはあるんですけど、僕らはネタを作るしかなかったです(笑)。そこからちょっとお笑いブームが起きて、『エンタの神様』(2003年)、『爆笑レッドカーペット』(2007年)、『あらびき団』(2007年)とかが始まり、そういう番組に対応していくネタを作って、ちょこちょこ番組に出させていただくようになり、2007年くらいからちょっと上向きに。
善し お笑いのDVDもちょうどこのあたりから、どんどん出だすんですよ。ダウンタウンさんはずっと出ていますけど、若手芸人も、後輩のDVDもどんどん出だして、ちょっとやばいな、DVDを出していないのが恥ずかしくなってきて、お笑いDVDのコーナーを通らなくなりました(笑)。でも、2008年にはDVDが出せて、それから毎年DVDに残すために単独ライブをやるようになりました。
多田 単独ライブを毎年やるようになり、お客さんも来てくれるようになって、ホンマにいい感じでしたね。2007、8、9年あたりは。
――それからネタ番組で活躍されて、それぞれ『R-1ぐらんぷり』でも結果を残すわけですね。
多田 2004年から『R-1ぐらんぷり』にコンビで挑戦していますが、相方は4年連続決勝進出。僕はコンビでネタ番組には出させてもらっているんですけど、『R-1』決勝へは全然行けず、コンビとしては複雑な時期ですよね。
――当時のコンビ仲は?
多田 テレビを見て、相方があんまりウケてへんかったら、「もっとがんばれよ」となるんですけど、めっちゃウケたら、「もうちょっとおさえろ」みたいな(笑)。
善し コンビでもちょいちょい出させてもらうんですけど、まだ確信的なものは何もないんですよね。『爆笑レッドカーペット』にちょっとは出られますけど、かと言って、お笑いブームに乗っかっているだけ、みたいな。
――地に足がつかない感じですか?
善し そうですね。その頃、僕らより若手が多く売れていましたからね。
多田 (『爆笑レッドシアター』の)レッドシアター軍団の、はんにゃ、フルーツポンチ、しずる...そいつらと一緒に出ると、おこぼれ「キャー!」があるので、やりやすい時期ではあったんですけど、コンビ格差はありましたね。
――コンビ格差が埋まったのは、多田さんが『R-1』で優勝された時ですか?
多田 そうですね。『R-1』に優勝させてもらったのが2012年だったんですけど、2011年なんて、拗ねてエントリーしませんでした(笑)。「もうええわ」って。
――不参加の翌年に、五十音BOXという五十音で始まるギャグで優勝したんですね。
多田 はい。爆笑問題さんがMCのネタ番組に出演した時、ネタ以外で爆笑問題さんとの絡みで、特技みたいなのを披露するんですけど、僕はギャグしかないと思って。でも「ギャグやります」ってやっても、絶対すべるんですよ。ほんで、これはどうしようってなり、爆笑さんから好きな五十音を言ってもらって、五十音から始まるギャグが出来たら、MCと絡むことも出来るし、自分もおいしい...この方式めっちゃいいわってなったんですね。最初の頃は、そうやって五十音を募ってやっていたんですけど、五十個もギャグあると、いいギャグとそうでもないギャグの波があるんです。それを見た相方から、「自分の得意なギャグの五十音だけボールに書いて、それをボックスに入れて引いてやったらええんちゃう?」とアドバイスを受けました。
――お二人の合作だったんですね!
多田 そういうことになってしまうんです(笑)。
――善しさんの当時の心境は?
善し そもそも『M-1』は出られなくなったけど、『R-1』でもコンビの名前は出せるし、コンビで決勝に行けたらいいやんというつもりで挑戦したので、それはホンマにいいなと思いましたね。後輩と一緒にお酒飲みながら見て、感慨深かったですね。
多田 優勝出来てよかったんですけど、よかったのは優勝出来た瞬間だけ。なぜなら、準優勝がスギちゃんやったんですよ。そこから、スギちゃん、スギちゃんとなっていき、「アイツは優勝したのに、全部スギちゃんに持っていかれた」とか、それこそ爆笑問題の太田さんとかに会うたびに言われたり(笑)。もちろん、太田さんなりにいじってくれはったんですけど、「確かになあ」みたいな、ちょっとネガティブになりましたね。スギちゃんの勢いはすごいし。
――でもそこから『あたりまえ体操』で大人気を得ることとなりますよね。
多田 2011年あたりから『あたりまえ体操』の伏線を張っていたんですが、我々を救ってくれました(笑)。
善し ケンドー・コバヤシさんはひとつ先輩で、大阪時代からかわいがってもらっているんですけど、「漫才とかギャグとかものまねとかいろんなネタやって、お前らホンマ『あたりまえ』なことで売れたなあ」って言ってくれました(笑)。
――確かに(笑)。
多田 ケンコバさんは、「K点、超えたな」って言って楽屋から出ていったのもすごく覚えています(笑)。
――超えましたか(笑)。『あたりまえ体操』は『あらびき団』用に作ったネタだったんですか?
多田 いいえ、最初は『S-1バトル』(ソフトバンクモバイル主催の映像作品コンテスト)用に作ったんです。『S-1』は東日本大震災の影響で休止となり、せっかく作ったのに出すところがなくなって、『あらびき団』でやらせてもらったんですよね。で、東野幸治さん(ライト東野)が、「うわ、COWCOW売れたんとちゃう?」って言ってくれたり、当時、ボストン・レッドソックス所属の松坂大輔投手がツイッターで「『あたりまえ体操』大好きです」とかつぶやきをもらって、ブワーって来たんですよ。でも、すぐ『あらびき団』が終わるんです(笑)。
善し 1ヶ月、4回くらい出て終わり(笑)。
多田 眼の前が真っ暗になるって、このことやなって思ったんですが、韓国のお笑い日韓戦っていうテレビの特番に日本代表で呼ばれて、「『あたりまえ体操』を韓国語でやってください」と言われました。うちら客前で『あたりまえ体操』をやったことがないし、しかも韓国で、韓国語でやるのってなりますよね。でも、どうにかやってみたら、すごいお客さんの反応がよかったんです。逆輸入という感じで、2012年に『笑っていいとも!』やゴールデンの番組に呼んでいただくようになって、そこからいろんなところでやらせていただきましたね。そのちょっと前に、ゲッターズ飯田が、「2012年はすごくいい年になる」って言っていたんですよ。それからずっと、ゲッターズ飯田が教祖で、ライブの字画まで聞いたりしています(笑)。
――ライブのタイトルの字画まで(笑)。
多田 あれだけ出させてもらうと、反動はもちろんあったんですが、でも2016年に『歌ネタ王決定戦』で優勝させてもらったのはデカかったですね。『あたりまえ体操』で、いろんな人に知ってもらいましたが、自分らには漫才はもちろん、いろんなネタがあるぞというなかで、コンビとして結果が出せましたからね。
――芸の幅を見せつけましたね。それから2年が経ち、今年は25周年。
多田 ゲッターズ飯田によると、いい年だそうです(笑)。本当に、今年に入って、25周年ライブのことをやってきたので、これだけを目標にやってきたという感じですね。
善し 単独ライブを初めて11年間の集大成です。時代の変化で、予算は減っているんですが、お金をかけないスタイルでの集大成(笑)。
多田 厳選したネタをやりつつ、お互い思い出に残るいいライブにしたいですね。
――25周年、COWCOWを続けられた理由はなんでしょうか?
善し 僕ら幸いにも、大阪時代にも賞をいただいたり、ちょこちょこですけど、いけるかもって思っていたんですよね。どん底の時も、ナインティナインの岡村さんや東野幸治さん、今田耕司さんたちがすごいあたたかくて、「面白いのにどうして売れないの」って言ってくださったりしたことですかね。
――ピンでネタをやっていた時も、そうした気持ちにズレはなかったわけですね。
善し ピンでネタをやっていただけで、ピン芸でいこうなんて気持ちはさらさらなかったですね。底辺とはいえ、COWCOWとしての出番は、毎月ルミネにすごい数出させてもらっていたんですよ。吉本新喜劇もありましたし、ほぼほぼ毎日、劇場にいるっていう感じでした。
――劇場番長たる所以ですね。最後に、これからの展望を聞かせてください。
多田 『CDTV』が25周年を迎え、安室奈美恵さんが25年で引退...ある意味区切りですが、僕らは新しいCOWCOWを見せていくことが主体となっていくと思います。新しい僕らを見てください...って言って、新ネタがなかったら、後戻りしてるって、笑けてくるんですけど(笑)。いやでも、『あたりまえ体操』をやらせてもらい、『歌ネタ王』を獲らせてもらったので、新しいリズムネタと言いますか、「あいつら何やってんねん」っていう感じのネタはやるつもりです。
善し 50、60、70代も面白い先輩方がいるので、その年齢まで続けたいですね。続けることが面白くなるとは思うんです。8月のトークライブのゲストに来てくれた笑福亭鶴瓶さんやよしもとの師匠方もそうですけど、年齢を重ねて、より面白味が出ていますよね。
――さらに50周年とかイメージ出来ますか?
多田 単独公演をやられている大先輩もおられますし、それが目標ですよね。そういう方になりたいですよね。そして、がんばって将来はハワイに住みたいな(笑)。
善し ハワイに住みたいっていうのはないですけど(笑)、40歳すぎると、いろいろ見えてくるじゃないですか。人生の折返しは終わっているぞとか、芸能界だけ見ても、この人、歳取ったなあとか、亡くなりはったとか。そういう意味でも、続けたいですよね。隠居もいいですけど、漫才師の先輩、師匠を見ていると、続けているってすごいと思います。
――生涯芸人ということですね。
善し それしかないでしょうね。芸人さんで「引退です」っていう方も少ないですし。
――多田さんがハワイに行っちゃったら、どうするんですか?
善し ハワイでギャグやっているでしょうね。
多田 COWCOWのハワイ公演とかね。
――50周年はハワイ公演って、いいですね。
多田 適当なライブになりそう(笑)。
善し ぜひ、取材に来てください(笑)。
――ぜひ、よろしくお願いします!(笑)