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2018年6月11日 (月)

コントを超えた"友近ワールド"全開 座長力でライブ大人気

『友近ワイド劇場』を幸運にも三回、観ることができた。
幸運にも、と言ったのは誇張ではない。
全国七都市をめぐった公演のうち、東京と大阪のチケットは一分間で売り切れたからである。
ぼくは朝十時にウェブサイトにアクセスしていたので間違いない。

じっさい、友近のライヴには争奪戦になるほどの魅力がある。
そこには、テレビだけでは完全には伝わらない、彼女の魅力がぎっしりと詰まっている。
ある土地の空気や風土と言ったものが、絵葉書では伝わらないのと同じく、友近のライヴは現場の空気こみでないと、本当にはわからない。
舞台上の芸はもちろんだが、彼女の世界に的確に反応する観客の笑い、リアクション――ステージを包み込む空間と時間そのものが、そのとき限りの作品になっている。
だから、彼女のライヴの半分は、観客がつくっているとも言える。

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友近のコアなファンには通じると思うが、彼女のネタの本質にあるのは、じつは〈笑い〉ではなく、架空の人物というフィルターを通じてしめされた世界の再構築(私には世界がこう見えている、という解釈)である。
はっきりとしたイメージの造形がまずあり、その結果として〈笑い〉がある。
何年もまえになるが、友近がまだルミネTHEよしもと(新宿)で単独ライヴを開催していたころ、堂々と花魁道中を演じ、何のオチもなく、スケッチが終わったときの凄味。
そのとき、観客は呆然としつつ、徐々にどよめいたが、そこにあるのは紛れもなく、ひとつの世界であった。
あるいはまた、『ラムのラブソング』(『うる星やつら』のオープニング曲)にあわせてダンスし、それだけで一景を完結させてしまった面白さも忘れがたい。
こうしたスケッチの総体が、文字通りの友近ワールドであり、今回の『友近ワイド劇場』でも観客は彼女のつくりあげた世界に、どっぷりと浸ることになる(いつものように公演時間は三時間を軽く越えた)。
そして、彼女の思い描くイメージをつくりあげるために、バッファロー吾郎A、飯尾和樹、秋山竜次、近藤春菜、シソンヌじろう、渡辺直美、ゆりやんレトリィバァという、最高の才能が集結した。

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公演は休憩をはさんだ二部構成になっている。前半は友近ひとり、ないしはゲストを相手に迎えたスケッチ集。
後半は今回のタイトルにもなっている『友近ワイド劇場』――往年の二時間ドラマ「土曜ワイド劇場」を下敷きにしたおよそ一時間の芝居である。
(ちなみに、友近のライヴに休憩が入るようになったのは、『友近ハウス』のホール再演(十五年)からで、ルミネ時代は休憩がなかった。『友近ハウス』の初演のとき、十九時半開演、終演が二十三時十分、休憩ナシ、という凄い回があった。いつまでも続いていく、あのグルーヴ感、密度、ヴィスコンティの映画のような充実した長さは忘れられない。いまの彼女の人気では、観客がルミネにおさまりきらず、いま思えば、あれは神話時代であった)。

今回の傑作はオープニングに流されたミュージックヴィデオであった。
出演者全員がおしゃれなドレスやスーツを着て、往年のシャカタクの名曲「ナイトバード」を演奏(のふり)をする。なんのおふざけもない、この演奏が面白いのは、友近のモチーフにたいするあこがれが本物であるからだ。カメラが引くと、演奏メンバーが夜の闇に浮かんだ巨大なルービックキューブの上に乗っている。この八十年代的なキラキラ感。それは(まだネットがなかった時代の)輸入物のミュージックヴィデオの感覚であり、それを放送していた深夜テレビの肌触りである。友近のセンスの根底には、愛媛で見ていたテレビ画面の向こうの都会、想像のなかのテレビスタジオ、芸能界への憧憬がある。「ナイトバード」にあわせてキーボード演奏(のふり)をする彼女は最高に輝いていた。
スケッチ集のなかでは、近藤春菜、飯尾和樹を相手に迎えた「地方局の女子タレント」がとくに面白かった。どこかのローカル局の、女子アナではない、スポンサーへの義理で使っている女子タレント。
どうでもいい情報番組の生放送スタジオに、友近と春菜が扮する二人のタレントが入ってきて、スタッフめいめいに「ちゃんと」挨拶をする。
その口調、仕草のこなれかたに、親の七光りで生きてきた地方女子タレントのダメっぷりが見事に描写されている。
春菜は、以前に友近と組んだ「岸辺のホームレスのカップル」もすばらしかったが、今回は女子を原寸大の女子として描くというリアリズムでも成功した。フロアディレクターは飯尾和樹で、女子タレントに独り言でつっこむ役だから、これはもう切ってはめたような適役である。
ただ、飯尾の出るスケッチはこれひとつしかなく、スケジュールの都合もあると思うが、友近とがっちり組んだネタも見たかった。彼一人は吉本所属ではなく(浅井企画)、友近のオファーで公演に参加しているので、なおさらそう思う。
以前に見た、「ラジオの女子パーソナリティと腰の低い局アナ」のネタなどすばらしかっただけに。
 シソンヌのじろうは今回、初参加。女装ネタで、「手芸喫茶を営む女子二人」という設定のスケッチに出た。
このスケッチ、どこかアブノーマルな女子二人が、じつは万引き常習犯だった、という骨子があるにはあるのだが、面白さのポイントはそこにはない。
たとえば、取材にきたローカル紙記者(バッファロー吾郎A)に、「おしゃべり魔女の店、って書かないでくださいよ」と念を押し(そんなことは言っていないのに!)、二人で顔を見合わせて笑う、微妙なニュアンス。ほとんど言葉にはできないふわっとした感覚は、わかるひとにはわかるという、静かなおかし味である。こういうネタを大きな舞台に乗せるのは、簡単ではない。ぼく自身の経験から言っても、一人か二人で共有している、ふとしたおかし味は、大人数の相手に説明をしたり、会議をしたりすると、消えてしまう。
ニュアンスがどこかに逃げてしまうのだ。こういう渋いネタをきちんと上演できるのは、友近の統括能力が並外れているということでもある。 

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 友近に、ライヴでの作劇の方法を聞いたことがある。
はじめに、友近の思い描いたシチュエーションを共演者に話し、共演者がそれならこっちはこう返す、とか、こう動くと提案、それを受けて友近が、じゃあその次はこうしたら――という風に作っていくのだという。
だから「感覚が同じ人じゃないと一緒にできない」と言う。さらに、その過程を同席した作家が台本にまとめると言う。
だとすれば、実質的には友近および共演者の共作で、ぼくは台本作者のはしくれなので、くやしくも思うが、しかし、作家の書いた台本を渡して、はいやってくださいという方法では、あの世界は絶対に完成しないだろう。

 後半は出演者全員が揃う『友近ワイド劇場〜黒蛙の美女〜』の開幕である。財閥一家に起きた殺人事件と、周辺に見え隠れする人間模様、そして「黒蛙」からの犯行予告――という世界で、江戸川乱歩の「黒蜥蜴」のパロディであり、直接的には七十年代の二時間サスペンスへのオマージュである。
 ヒロインはもちろん友近で、小川真由美ふうの美女である。
幕開き、刑事から犯行現場の写真を見せられ、「いやあああ」と叫んで写真を投げ出し、そのまま溶暗、スクリーンに「友近ワイド劇場」のオープニングフィルム(すべて「土曜ワイド劇場」に酷似したグラフィック・デザイン)が流れ出す呼吸が快調。
ここでも、ヒロインの七十年代風の叫びにちゃんと反応する観客の感度がいい。
出演者のなかでは、「さっぱり手がかりが無い。いやあ参りましたなあ」と頭をかく飯尾和樹の刑事がいい。
ぼさぼさの髪型もふくめて、ちゃんとフィルム時代の二時間ドラマの人である。
邸宅の外におしかけたマスコミの連中をさして「まったく××××のように騒いでいますなあ」という無神経さも、当時のテレビ・コードそのままである。
お約束の怪しい使用人(じつは犯人では無い)は公演会場によってキャストが違って、ぼくは近藤春菜で一度、じろうで二度見た。春菜の小動物のような動き、じろうのギクシャクした動きを見比べられたのが収穫。
そして、なんといっても友近の色気である。
劇中、登場人物たちを次々に誘惑するシーンがあるのだが、顔や体の艶っぽさ、ボリューム感は大ホールいっぱいに広がるスケールであった。

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そして、乱歩的世界を追求しても、徹底して明るい。
大詰の謎解きで、屋敷が停電になり、明るくなると彼女はもういない。
そして、宝石を手にした黒蛙=友近が、自動車を運転し、夜の中に消えていく。この幕切れのすぱっとした感じ。
しかも、車はスタジオ撮影で揺れているだけで、本当には走っていないという芸の細かさである。
三時間のステージを終えても、友近は心身ともに余裕があって、少しもくたびれたところがない。
ぼくたちはもう十年以上、こうした奇跡を目にしているのだ。
高知公演のあと、打ち上げを終えても、まだ体力があり余っているので、友近は渡辺直美を誘って、二人で深夜の町をサイクリングしたそうだ。
 

和田尚久(放送作家)